コケムスシェルター

無能の気遣い【愚痴】

愚痴。

上司にあきれられた。
そろそろ無能さ見切りをつけて、部下教育を諦めないだろうか。と思う今日この頃。

今日のテーマは……「気遣い」。
どうもできていないらしい。知ってたけど。

「気遣い」とは、「マナー」の上位互換だと思う。
「マナー」ができて”プラスマイナスゼロ”
「気遣い」ができて”プラス”
みたいな感じ。

で、まぁある程度はマニュアルがある。
「マナー」でいえば、「身だしなみを清潔に」とか「目が合えば挨拶」とか。
「気遣い」でいえば、「雨が降れば傘を差し出す」とか「暑い日に冷たい飲み物を差し入れる」とか。

で、まぁある程度なのである。
「マナー」はまぁ「共通のルール」であり知ってるか知らないかというもの。ほぼマニュアルといっても良い。覚えればできる。
しかし「気遣い」はそうはいかない。「気遣い」の難しさは、万人に共通するものではない。ということ。正解が人によって異なる。
「自分の正解が相手の正解ではない」のである。これがしんどい。
自分基準で良かれと思ってした「気遣い」が人の気分を害することがある。
あるいは良かれと思ってあえて「気遣い」をしないと気の利かない奴と思われてしまうことがある。

KY……結局空気が読めていないのであろう。知ってた。簡単に言うとこれだろうな。人によって、状況によって正解が変わる。その空気を読むことができるか否か。だろう。
あと相手を知ることも大事だと思う。食べ物の好みとかアレルギーも「気遣い」の対象。他は未来の想像とか、道のある仕事だと先々○○が必要になるからあらかじめ用意しておく。みたいな。この辺は経験の領域かな。

さて、できない原因は何だろうかと考える。
思い当たるのは、自分自身が「気遣い」されるのがあまり好きではないからとか。
気を遣われると居心地が悪くなる。むしろ雑に扱われる方が落ち着く。なので人がどういった「気遣い」を求めているのかわからない。のだろうと思う。
服屋で店員に話しかけられるサービス(気遣い)が嫌いな人は僕と同じ側の人間ではないかと思う。そう思うと結構多数派かも。

最近分かったことは、「気を遣う」ことに関して「自分だったどうして欲しいか」を考えると失敗する。……我ながら至言ではなかろうか。
しかしなー、「自分は嬉しくないけど、他人は嬉しいだろう気遣い」を想像するのって無理くね?

自分が人にされて嬉しい「気遣い」の方向性は「放置」。なんでみんな人と関わりあいたいのか。分からない。他人の心なんて分かるものなのか。目も耳もあるのにわからない。できる人は第6感でももちあわせているのだろうか。

あきらめて今日も眠る。

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